2005年09月13日

ベトナム独立戦争

9月2日はホー・チ・ミンによってベトナム民主共和国の独立を宣言した日。
ハイビジョン特集
「引き裂かれた家族〜残留元日本兵とベトナムの60年」の再放送を見ました。

前回インドネシア独立戦争のことを記事にしたが、ベトナムでも日本敗戦後、独立運動に参加し少なからず貢献した日本人の存在を忘れてはならないと思う。

もちろん武悪堂もほとんど知らなかったことなので、この番組はとてもおもしろかった。

1945年8月半ば、日本の降伏が近いことを知った、ホー・チ・ミンはべトミンを指揮し、大規模な大衆運動を扇動する運動は瞬く間にベトナム全土に広がり、親日政権は崩壊、8月30日バオダイ帝も退位を宣言した。

権力を掌握したホー・チ・ミンは9月2日独立を宣言する。
日本軍は武装解除には応じなかったが、フランス軍から接収した武器をべトミンに引き渡した。

ポツダム会議でベトナムをフランスに再統治させる目論見であった連合国はインドシナ駐留日本軍に対して独立運動の鎮圧を命じた。

ホー・チ・ミンも日本軍の戦力の必要性を感じて水面下でべトミンに協力し、独立運動を助けて欲しいと接触した。
そして日本軍を密かに離隊、べトミンに参加した日本軍兵士は約700人といわれている。
皇軍が残留した理由は戦犯になる事を恐れたり、ベトナムに恋人が出来ていた、米国に占領された日本に帰ってもどうしようもないと悲観的になったなど、様々だがベトナム独立という新たな目標のために欧米と一戦し、手助けをするという理念は共通していた。

第三十四独立混成旅団(旧都フエ駐屯)の参謀井川省少佐(ベトナム名レ・チ・ゴー)はグエン・ソン将軍と親交を結び明号作戦で仏印軍から押収した武器をベトミンに提供した。
グエン・ソンの部隊に加わったが、四六年四月、中部高原のプレイクへ防戦指導に赴く途中、仏軍の待ち伏せ攻撃に遭って戦死した。

同年六月、ベトナム中部のクァンガイ市にグエン・ソンを校長とする陸軍中学(北部のチャン・クォック・トアン武備学校と並ぶベトナム初の士官学校)が設立された。
教官(四名)のうち中原光信少尉(ミン・ゴック)と谷本喜久男少尉(ドン・フン)は井川少佐の直属部下、加茂徳治中尉(ファン・フエ)と猪狩和正中尉(ファン・ライ)は第二師団(南部駐屯)の元中隊指揮官で、副教官(四名)と医務官(一名)も元日本軍下士官だった。
このなかで加茂中尉はNHKのインタビューにも応じていた。

学校では銃の扱い方から、部隊の構成、指揮の取り方、敵の不発弾から爆弾を作るなどの武器の製造方法など。日本軍の軍事知識を教練した。

ここで学んだ、ベトナム人民軍幹部候補生は後に対仏戦争、対米戦争で作戦参謀や野戦指揮官として欧米を苦しめる事となる。

ベトナム独立の英雄、ボー・グエン・ザップ将軍はNHKのインタビューに答えた
「当時のベトナム軍はまだ創設されたばかりで、とてもフランスとは戦えるものではなかった。新ベトナム人(日本人)はあらゆる面でベトナムを支えてくれた。新ベトナム人の功績は称揚されるべきである」

中原は人民軍総司令官ボー・グエン・ザップ将軍側近の軍事参議官、谷本、加茂、猪狩DRV中央の軍事訓練局スタッフなど重要ポストに就いた。青山は歩兵部隊の副中隊長となり、五二年にハノイ東方のハイズン省で戦死した。副教官三名はベトナム中部で戦闘指導や兵員訓練に努めた。医務官(レ・チュン、本名不詳)はクァンガイ省内で診療を続け、地元軍民に尊敬されながら病死した。

1949年中華人民共和国成立。

50年になると中国やソヴィエトから軍事顧問団や軍事援助が入るようになり、徐々に元日本軍の幹部は中枢から外されていく。

1954年 冷戦状態が深まっていく中、アメリカとベトナムの関係が悪化、アメリカを支持する日本との関係も悪化し、ホー・チ・ミンは日本兵の日本送還を決定する。
しかし、ベトナム人妻や家族たちを連れて行く事は許されなかった。夫たちは長期出張すると言い残して、そのまま帰る事はなかった。

残された家族は国家の保障も無く、再婚にも差別を受けて苦労したらしい。
子供たちは「子供のときはいじめられた。大人は日本人のした事をよく知っていたので、いじめられる事は無かった」「ベトナム人として人民軍に参加し、ベトナム戦争に行きたかったが
何度、徴兵検査を受けても受からなかった」
とインタビューに答えていた。

長年、日本とベトナム両国の関係は悪く、この事実もベトナムではタブーとされてきたが、両国関係が良くなっていくにつれ明らかにされている。
こういった両国の歴史を日本人が知る事でベトナムに親近感が持てるし、日越友好をさらに大切にしなければならない。

アジアはどこかの反日ばっかりやって、日本にたかり強請りをやってきている国だけではないのだ。

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posted by 武悪堂 at 00:16 | Comment(10) | TrackBack(6) | 日記
この記事へのコメント
ホー・チ・ミンは漢字で「胡志明」、
中国誤読みでフーシーミン。
Posted by worldwalker at 2005年09月19日 02:26
インドネシアばかりか、ベトナム独立にも貢献した日本兵がいたのですか。恥ずかしながら、知りませんでした。

ベトナムは過去何度も中国に侵攻された歴史を持ってます。それを教科書に書くな、反中感情を植えつける、とクレームつけたのが江沢民でーす。
Posted by mugi at 2005年09月19日 21:20
私も知りませんでした。こういう歴史を学校で教えられなければならないと思います。
Posted by 武悪堂 at 2005年09月21日 22:27
はじめまして、私は猪狩和正の息子
(PhanTheVong)です。
記事を拝見させていただきました。
私も知らないことが書かれており、
勉強になりました。
ありがとうございました。
     萬事如意 
     Igari masao
Posted by 猪狩 正男 at 2005年09月22日 10:12
まさか猪狩中尉のご子息からコメントいただけるとは夢にも思いませんでした。
実名を出してご迷惑をおかけしていたら大変申し訳ございません。
この歴史的事実が教科書にも載る事は無く、歴史の狭間に埋没しているのはとても残念な事です。
一人でも多くの日本人が先人が築き上げてきた事を知り、日越関係がさらに良好になることを願います。
Posted by 武悪堂 at 2005年09月22日 22:44
昨日コメントさせて頂きました猪狩和正の息子です。
そうそうにお返しのコメントありがとうございました。
 さて、私が知る史実の中ではザップ将軍の特別
指令で中原先生は参謀的立場で貢献され、父和正はザップ将軍直々にヴェトナム軍(人民軍)の歩兵操典を編纂せよという極秘指令を受けておりました。
父は南部海岸のニャーチャンにて軍学校の教官としてゲリラ(後のベトコンゲリラと特攻攻撃
<特攻隊>を教えその後中部クァンガイ陸軍士官学校にて中原・加茂・谷本先生方とともに教官になり、後に北部タイグェンというベトミン司令部のとてもとても山深いボーチャインという隠れ地区ベトミンの指令地区にて歩兵操典を極秘に編纂をしました。
それを終えた後は自らが資格を持つ歯科医師としてタイグェンの軍医部にて歯学を教えつつ、医療に尽くしました。)
これについては井川さんはじめヴェトナム研究家の中で数人知る人がおりますが、そのなかの数人がヴェトナムにおいて調べた結果その事実がつかめているもののそれについては特別な極秘としてヴェトナム側では今のところ正式に発表していません。しかしながら越国内部では話に出ております。
以上ですが、ご参考になりましたら幸いに存じます。
        萬事如意
           PhanTheVong
Posted by 猪狩 正男(藩世望) at 2005年09月23日 02:12
貴重な補足コメントありがとうございます。
12日にもNHKBSの再放送があったみたいなのですが、多分地上波でも放送されると思います。

http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/50099254.html
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ブログ アジアの真実さまによると、産経新聞がベトナムの新しい歴史認識の流れを報じています。
これから真実が少しずつ明らかになってゆくことを期待しています。

産経新聞記事
http://www.sankei.co.jp/news/050920/kok059.htm
Posted by 武悪堂 at 2005年09月24日 01:15
元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道

 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946―54年)を共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。

 8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。

 抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。

 40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。近年、両国の経済関係が緊密化する中で、大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。

 井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。(1)敗戦で日本の将来を悲観した(2)現地に恋人がいた(3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感―などが理由という。

 元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、約半数が戦病死したとみられている。54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、150人以上が日本に帰国した。

 井川教授は「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを歴史として残さなければならない」と述べ、ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。

 似たような戦後を生きた日本兵としては、対オランダ独立戦争に参加したインドネシア残留日本兵の存在が知られている。

 ■ベトナムと旧日本軍 1940年、フランス領のベトナムに進駐した日本軍は45年3月、フランスの植民地権力を解体しベトナムを形式的に独立させた。同年8月の日本の敗戦を機にベトナム独立同盟(ベトミン)の蜂起で8月革命が起き、9月にベトナム民主共和国が独立を宣言し、ホー・チ・ミンが初代大統領に就任。しかし、ベトナムの再植民地化を狙うフランスと衝突し、46年に抗仏戦争(第1次インドシナ戦争)が始まった。ベトナムにとどまった旧日本軍兵士がベトミン側に参加。ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスは54年7月にジュネーブ協定を締結、戦争は終結したが、ベトナムは南北に分断された。(共同)



 ベトナムには、1954年以降に帰還した元日本兵と現地女性の間に生まれた子供が暮らす。正確な人数は不明だが、数百人いるともいわれる。その大多数が父と再会することなく、身分を隠したり差別を受けながら苦難の人生を歩んだ。元日本兵の父を持つ北部タイビン省出身で、現在南部カントー市に住むレ・ヒエップ・チンさん(55)が自らの境遇を語った。

 母は女手一つで4人の子供を育て、大変な苦労をした。母は、貧困の中で父への恨みを言ったものだ。ベトナム戦争が終われば父が帰ってくるのではないかと待ち続けたが、音信はなかった。

 わたしはベトナムにも日本にも受け入れられない存在だった。つらかったのは「日本ファシストの子」とののしられ、あらゆる差別を受けたことだった。共産主義を信じたが、党員になることは認められなかった。ベトナム戦争にも志願したが、入隊は認められなかった。ベトナムがカンボジアに侵攻した後の1979年に入隊が認められ、ベトナム人としてようやく認知されたと感じた。

 90年に突然、父から手紙が来た。「苦労をかけた」と謝罪の言葉が続き、最後に「それぞれの人生を歩もう」と書かれていた。母は怒っていた。これが父からの最初で最後の手紙だった。

 98年に日本にいる息子という人から手紙が届き、その2年前に父が他界したと知った。「遺品を整理していてベトナムの家族の存在を知った」「どうか父を許してやってください」とつづられていた。姉が日本に行き、父の遺骨を分けてもらった。

 母は昨年11月に亡くなった。父を待ち続け、再婚することなく終えた83歳の生涯だった。2人の遺影は同じ祭壇に置いている。父は無責任だと思う。でも一目でいいから会いたかった。

(共同)

Posted by 武悪堂 at 2005年09月24日 01:17
TB、そして貴重な情報ありがとうございます、やっぱり国より人ですね
Posted by マルセル at 2005年09月24日 01:21
始めまして,私は猪狩和正(ファン ライ)の息子長男です。この記事を始めて拝見し色々な事が分かりました。本当に歴史の狭間に埋没される事無く、本当の事実をもっと伝えるべきと痛感いたしました。
私は11年前からベトナムに移り住んで降りますが,今 父のルーツを辿りながらベトナム(Hanoi)にて生活を送っております。
今後も拝見させて頂きます。
有難う御座いました。
Posted by 猪狩和男 (Phan The Binh) at 2009年06月03日 13:49
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