NHKスペシャル「日中戦争 〜なぜ戦争は拡大したのか〜」
何ゆえこのずさん極まりない番組が文化庁芸術最大賞なのw
犬HKと媚支那官僚との定番のプロパガンダ放送。
蒋介石=ファルケンハウゼンの作戦計画は上海にいる帝国海軍陸戦隊(上陸「しゃんりく」と呼ばれた)を挑発し、本国からの陸軍部隊とともに2万ものトーチカ陣地敷設したゼークトラインに呼び込み、攻撃させ死体の山を築かせることにあった。
8月初旬閘北(ざほく)方では保安隊に偽装した中央軍が連夜演習を行っていた。
8月6日
岡本季正上海総領事は在留居留民に対し租界へ退避するように指示した。
上海警備司令張治中は「徹底的長期抗戦をもって日本軍を殲滅すべく、今や最良の好機である。日本の作戦持久は6ヶ月を越えない」と管区将兵に訓示した。
船津工作
支那事変不拡大派の石原莞爾作戦部長と外務省東亜局長石射猪太郎によって蒋介石との外交的妥協を模索した非公式外交工作。
・塘沽停戦協定その他華北に関する軍事協定は一切解消。
・冀東防共自治政府、冀察政務委員会を解消し国民政府が行政を行う。
・支那駐屯軍の兵力を今事変前に戻す。
・満州を承認あるいは満州を今後問題としないとの約束。
・日中防共協定
・上海停戦協定の解消
・日本機自由飛行の解消
・日中経済提携の促進
つまり、国民党政府が満州を承認すれば、日本側は臨時傀儡政府を解消し、塘沽停戦協定以降北支に築いてきた権益を返上し南京政府を承認し防共協定を締結し、貿易条件を改善するという華北の戦闘において勝利している日本にとっては最大限譲歩した条件。
さらに国民党は既に満州国を事実上承認していたので、譲歩すべき問題は何もなかった。
通州虐殺事件で日本国内は大手マスコミの煽動によって「暴支膺懲」の声が高まっていたにもかかわらず、政府、軍部は蒋介石との和平を模索していた。
しかし戦争に勝利を確信し、戦争計画を発動していた蒋介石にとってもはや聞く耳を持つものではなかった。
石射猪太郎の日記
8月4日
「これが順序良く運べば、中日の融和、東洋の平和は具現するのだ。日本も中国も本心に立ち返り得るのだ。尊い仕事だ」
昭和天皇の評価
8月6日
「近衛首相の話によれは船津か上海にて内面交渉を行う由なるが、うまく行けば宜しいが、若しこの条件にて支那が同意せさるなれは寧ろこれを公表し日本がかく公明正大の条件を出したるに支那同意せさるなりとせば、各国の世論も帝国に同情すへし
出来るだけ交渉を行い纏らされは止むを得ず戦うの外なし。先日参謀本部の話に長引く時に露を考慮するの必要上支那に大兵力を用い得ずとの事なるがやれる丈けやるの外なし。
陸軍も困ったものなるも海軍のみにてもしっかりやる様に。」
昭和天皇も出来うる限りの外交交渉を尽くすことを望んでおられたようだ。
やれるだけ努力すれば、国際社会も認めてもらえるだろうという配慮が今となっては涙ぐましい。
しかし、8月9日和平交渉当日、蒋介石国民党は計画通り上海において作戦を実行する。
8月7日
南京に旧軍閥の実力者を集め対日戦争を主導するよう指令。
南京政府の総動員兵力は100万、武器弾薬は6か月分保有。
第二次上海事変
1937年8月9日
大山事件
海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉が支那保安部隊によって銃撃を受け殺害される。
大山中尉、斎藤水兵および支那保安隊員1名が死亡した。
日中共同の公式調査によれば、中国保安隊員は背中から小銃弾2発を打ち込まれて即死した。大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、頭部・腹部などに刃物・鈍器によると見られる損傷が見られた。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたという。
クロード・ファレール 「支那紀行」より
日本軍は驚嘆すべき冷静さを持していた。彼等は最も優秀なローマの警官の教える所を実行したのである。彼等は自動車にも死骸(大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵)にも決して手を触れなかった。彼等は上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。待つ間もなくその人々はやって来た。人々は事件の検証を行った。
中国兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横たわっていた。しかし、その実地検証は、なんの異議もはさまれることなく、次のような事実を確認した。すなわち、この男は可愛そうにその同僚(中国兵)から自動拳銃によって、背後から、射撃されたのであって、その後、その日本人暗殺に対して争闘のような色彩を与える位置にひいて行かれたのであった。
日本軍は英仏米の官憲の検証まで遺体に手をつけず、第3者の英米仏の官憲上海市長によって、死んでいた中国兵は、大山中尉と争ったように見せかける為、仲間である中国兵に銃殺された後に現場に放置されたと支那側の偽装工作が暴かれた。
8月9日、事件発生。事件の報告を受け、喩上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は当初、日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。中国側は、日本軍が事件以前から虹橋飛行場付近の偵察などを行い守備兵との衝突がおこっており、書面による抗議、再発防止を求めていたことを指摘するとともに、事態の拡大防止、事件の調査、外交交渉による解決を要望した。日本側もこの要望に同意し、中国側と共同調査を実施した。
8月10日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。
当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の歓説により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。英米仏伊代表は賛成し、上海市長も実現する為にできる限りのことをすると約束した。
これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日、海軍陸戦隊を上陸させなかった。
海軍大臣米内光政大将は、上海方面の状況を説明したのち、真相判明を待って対処したいが、さしあたり陸軍部隊の動員準備を願いたいと発言した。
参謀本部石原部長は反対したが杉山陸相はこれを諒承、閣議では現地居留民保護を再確認し陸兵派遣の準備を容認した。
8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。
この頃より、国府軍88師87師80師から正規兵1万2千が上海停戦協定に違反し、非武装地帯に侵入陣地構築を開始。
英米仏伊各国大使が「上海に戦火を及ぼさない様に」との共同通告
。川越駐支大使回答「支那側が停戦協定を守れば、日本軍は戦闘行動をとらない」
北支において張鼓峰事件(ソ満国境紛争)の停戦協議が成立
8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、国際共同租界の日本人区域を包囲した。
帝国海軍陸戦隊4千を支那軍5万で包囲。
このため、日本領事は国際委員会を再び召集し、中国軍の撤退を要求した。
8月13日未明、包囲した中国軍は国際租界の日本海軍陸戦隊と交戦を開始した。陸戦隊は戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定した。
列強各国の調停の申し出を期待したためである。中国軍機が低空を飛行したが、陸戦隊は対空砲火を行わなかった。英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。
中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
日本軍は国際租界から撤退する。
中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。
会議中であった13日の午後から中国軍機による空からの攻撃が開始された,
陸戦隊本部、上海総領事館、船舶等。これに対し、黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えた。
長谷川中将は戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦争拡大を考えて、中国軍はすでに開戦を考えていると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は北支の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。
在支日本人の内地送還始まる。
8月14日、中国空軍が日本艦隊、陸戦隊本部、日本総領事館を空襲した。しかし、爆弾の数枚はフランス租界や国際共同租界を誤爆?し、民間人に2000人あまりの死傷者が出た。
南京路のキャセイホテル、パレスホテルを誤爆?。
この日、日本海軍は台湾から上海杭州の飛行場を空襲、15日からは九州から南京に対するいわゆる渡洋爆撃を開始した。
帝国海軍第3艦隊旗艦「出雲」が支那空軍より空爆を受ける。
海相米内光政はこれに激怒し、以後南京攻略主戦派に転身する。
米内海相「日中全面戦争となったからは、南京を攻略するのが当然だ。使用兵力については、いろいろあるだろうが、主義としてはそうでなければならんだろう」
杉山陸相はこれに驚き、不拡大路線を説得、広田外相、賀屋蔵相も同調するが聞き入れられず。
8月15日
帝国政府は声明を発表、支那軍の暴挙を膺懲して南京政府の反省を促すのが、今次出兵の目的とされた。不拡大方針は影を没して全面戦争も辞さないと見られるものであったが政府は依然不拡大方針で、事変の早期解決に努力すべきであるとした。
1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,忠告南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」
蒋介石は全国総動員令を下し大本営を設置、自ら陸海軍総司令に就任し全国を4つの戦区に分けて純然たる全面戦争体制をとった。毛沢東の紅軍も国民革命軍第八路軍(八路軍と呼称)と改称、公表された。中共はこの日呼応して抗日救国十大綱領を掲げ、名実共に国共合作が成る。
このとき海軍陸戦隊は1万2千に増強されていたが、国府軍のドイツ式精鋭部隊8万に攻囲されていた。
8月18日
英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。
仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。
しかし日本政府は後にこれを拒否する。
日本はすでに中国と対決する決意を持っていた。日本側は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入を行わなかった。日中衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた世界列強は上海の事件では中立を表明した。
上海に動乱を持ち込んだのは蒋介石国府軍(保安隊)であり、日本は上海租界居留民の安全権益の保護を守ったにもかかわらず、支那の経済権益の中枢上海が戦渦に巻き込めれたことはプロパガンダに利用され全世界に報道された。
蒋介石が外国租界を巻き込み国際世論を反日に傾かせ日本と分断するプロパガンダ工作はまんまと成功した。
昭和天皇は、閑院宮参謀総長に下問した。
「いろいろな方面に兵を用いても戦局は長期化するばかりである。重点方面に兵を集中し大打撃を加え、我々の公明なる態度を以って和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか。」
昭和天皇は蒋介石の上海決戦に応じ、これを堂々と撃破した上で日支の早期の和平を願っていた。
8月21日
南京で,中ソ不可侵条約が締結蒋介石に対するソヴィエトからの武器援助、借款が再開される。
8月22日、上海派遣軍の第三、第十一師団の先遣隊が軍艦で到着した。
8月23日 第3(藤田進中将)、第11師団(山室宗武中将)を主力とする上海派遣軍(司令官松井石根大将、参謀長飯沼守少将)を上海北方に強行上陸、戦闘に加入した。当時の支那軍は中央軍の精鋭14〜15師で、網の目状のクリーク地帯の堅固なドイツ式トーチカ要塞、家屋を盾に抵抗した。支那軍の兵力はますます増大し国府軍に包囲される形となり、また盛夏のためコレラ、腸チフス、赤痢、マラリアが蔓延。充分な補給も無く、第3、第11師団は戦闘1ヶ月にもならない段階で非常な損害を被った。
8月24日 支那戦線不拡大派石原莞爾参謀本部第一部長の「焼け石に水」との反対にも関わらず、参謀本部が決定した4個師団動員が閣議で可決された。これまでの動員数とあわせて103万7千人、軍馬15万4千頭
8月27日北支にて東条英機関東軍参謀長による察哈爾(チャハル)作戦始まる。蒙疆における支那のアヘン利権を押さえる目的。
ニューヨーク・タイムズ アーベント特派員の記事
「日本は第一次上海事変を繰り返すを好まず、忍耐、隠忍もって極力事態の悪化を防止せんと努めたるも、支那における外国権益を渦中に引き込むを画策したる支那人によりて、文字通り戦争に押し込まれた。」
ジャキーノ神父の感謝
昭和12年8月、第2次上海事変が起きた。上海の難民区で30
万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父は、東京日
々新聞に次のように語った。
日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません。食料があと二、三日分しかなく、心配していたところ、松井大将が一万円を寄贈して下され、非常に感謝しているところです。
まだ続く
以前の記事
NHKその時歴史を変えた
NHKその時歴史を変えた2
シナ大陸の真相―1931‐1938 | |
![]() | K.カール カワカミ 福井 雄三 おすすめ平均 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
日本と中国はなぜ戦ったのか | |
![]() | 益井 康一 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵 | |
![]() | 奥村 和一 酒井 誠 おすすめ平均 ![]() ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
そして、さっそくお伺いしました。
支那事変について未だ不勉強の私にとってたいへん参考になり、今後の考察プランの糸口になります。
今後とも宜しくご指導下さいますようお願い申し上げます。
またお伺いします。
学校でも習った筈なんですがこちらの方が興味深くて勉強になりました(笑
>8月23日 第3(藤田進中将)、第11師団(山室宗武中将)を主力とする第1軍(上海派遣軍司令官松井石根大将、参謀長飯沼守少将)を上海北方に強行上陸、戦闘に加入した。当時の支那軍は中央軍の精鋭14〜15師で、網の目状のクリーク地帯の堅固な火点、家屋を盾に抵抗した。支那軍の兵力はますます増大し第19路軍に包囲される形となり、また盛夏のためコレラ、腸チフス、赤痢、マラリアが蔓延。充分な補給も無く、第3、第11師団は戦闘1ヶ月にもならない段階で非常な損害を被った。
とのことですが、第1軍は、北支那方面軍隷下に編成されたもので上海派遣軍とは関係ないかと。
また、第19路軍が参加したのは第1次上海事変(1932)で第2次上海事変(1937)には参加していません。
参照元が間違っていました。第一軍は寺内寿一大将揮下の北支派遣軍ですね。
修正します。
戦局悪化によって北支から上海戦線に大分転用されたようですね。
また気付いたことがあったら教えてください。